『ブレードランナー2049』 レプリカントは◯◯の夢を見るか?

当記事は前記事のつづきです。

 

xiraphilosopher.hatenablog.com

 

さて、

前記事では「新しい」要素の正体をはぐらかしたまま終えたのだが、当記事ではそれを明らかにすると共に『ブレードランナー2049(以下、「本作」という)』の内容についても触れていこうと思う。

 

ということで、ここからはネタバレあります!

結論からいってしまえば
「新しい」要素

それは紛れもなく前作『ブレードランナー』と本作に共通する「物語のテーマ」である。

そして、それは具体的にいうと「人間とはなにか?」という問いである。

 

本作主演のライアン・ゴズリングはある雑誌のインタビューに「『ブレードランナー』からアイデアを盗んだ映画は山ほどあるけど、魂までは盗めてはいないね。」と語っている。傲慢であることを承知の上で言わせてもらうとこの発言は私が前記事で述べたことと同じ主旨であるように思う。

 

この問いは前記事でも述べたように古今東西あらゆるところで議論され問題となってきたものだ。

本作でももちろんこの問いはテーマになっているが、重要なのはやはり前作と本作の製作における時代背景の差異だろう。前作は当時においては革新的とされたあらゆる手法により「人間とはなにか?」という問いかけを成功させた。当時においても『ブレードランナー』を観る前からこの問いを真剣に考え続けていた者が数多くいたことはもちろん当然のことだ。(前作は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』というフィリップ・K・ディックの原作小説をもとに作られたのだから。)しかし、当時前作を観た人たちの内どれだけの数の人がこの問いに向きあわされたのだろうか。さほど多くはないだろう。何もかもが新しすぎたのだ。前作のオリジナル版公開当初は興業収入が振るわなかったという点からも当時の人々の関心がこの問いに向きにくかったことが分かる。(ちなみに当時は同じSFでも『E.T.』が流行っていたそうな)
これに対して、本作が作られた近年においてはこの問いがどれだけ映画を観る人の内面をえぐり、不安にさせるものなのかは言うまでもないだろう。

技術の進歩や文明の発展がもたらしたもの。

私たちが日々の生活において何気なく触れているもののほぼ全て、これらがもたらしたものの意味。

誰もがそれらについてまで思いを馳せずにはいられないだろう。
はっきりいって本作は気持ち良く観れたいい映画ではあったが、耳の痛くなるような、心臓を握られるような、そんな表現も多々あった。だが、個人的意見ではあるが良い作品はすべからくそういった表現を含んでいるように思う。

 

「人間とはなにか?」である。

 

本記事はこの『ブレードランナー(2049)』の根源的なテーマに沿った形で本作を検討し自論を展開する。

 

◯絶対への欲望と限界への絶望

哲学的な議論において「人間とはなにか?」という問いはしばしば「神」との対比の文脈で論じられる。人間は「バベルの塔の物語」などからも分かるように古くから権威や栄光といった偉大な力を求めては、圧倒的な力の前に打ちひしがれるということを繰り返してきた。この偉大な力というものに際限はなく、人間は常に目に見えない「絶対」を欲望してきたのだ。これはすなわち「神への挑戦」とも言い換えることができるだろう。その過程において人間は何度も己の「限界」を知り、そして絶望を味わうことを経験した。

本作の監督ドゥニ・ヴィルヌーヴは前作『ブレードランナー』について「神を演じようとした男の物語なんだ。そして、映画の中心になっているのは、神や創造者への怒りだ。そういう怒りは人間の条件に対しても向けられている。」と述べている。

おそらくこの後半部分が指す「人間の条件」というのは私が上で述べた人間と「神」との対比の結果導かれる「限界」を指すのだろう。
では、前半部分は何を指しているのか?
これがまさに「人間とはなにか?」を『ブレードランナー』両作において考える土台の役割を果たす「人間とレプリカントの境界」問題である。

「神を演じようとした男」とは他ならぬロイ・バッティ(ルトガー・ハウアーが好演した反逆レプリカントのリーダー)のことだろう。(デッカードと捉えることもできなくはないが彼はレプリカントであることを前提にしたとしても、苦悩する主人公として視聴者に近い目線で描かれていることから私は違うと推察する。)
「自分はどうして4年しか生きれないんだ?」彼は問いつづけただろう。そして創造主であるタイレル博士たちに対して激しい怒りをぶつけた。と同時に自己の「限界」に対しても怒りを覚えたはずだ。この構図はまさに「神」と「人間」の関係と同じだ。

対して本作の主人公Kはどうだろうか?

彼は寿命制限のない人間に忠実なネクサス9型のレプリカントである。しかし・・・・

彼はあの骨(レイチェルの遺骨)に出会うまで自分のことを単なる仕事熱心なレプリカントとしか思っていなかっただろう。同僚から「Skin-job(=人もどき)」と罵られても何も感じていなかったように、忠実に上司の命令に従うことが自分の存在価値を証明する唯一の手段だと考えていたのだ。これは一種の「絶望」だろう。

しかし、おもしろいのは同じレプリカント9型のウォレスに仕えるラヴと違って、彼にはジョイという心の支えがあったことだ。彼女はAIに過ぎない。そんなレプリカント以下の存在とも言える彼女がただ忠実なだけのラヴにより一度消滅させられ、物語の終盤にKに「真に人間らしい」行動をとる決意をさせる(「Good Joe(=いい人)」発言) 重要な役割をはたすという演出はあっぱれであった。この「真に人間らしい」行動というのが本作の最も重要な部分である。

つまり、この行動を描いたことで本作は「人間とはなにか?」という問いに対する一つの答えを示したのだ。

レジスタンスの主張する「人間らしさ」である大義名分に基づいた行動(あの場においては奇跡の子であるアナ・ステラインを守り抜くためのデッカードの殺害)ではなく、Kは、「自分の頭を使って考え」抜きデッカードという「他人を想って」彼を救い出しその娘であるアナに会わせるという行動を選んだのだ。
うろ覚えだが、たしかKはデッカードをラヴの手から救出した直後「(おれは)死んだよ。」というような主旨のセリフを口にしていたように私は記憶している。
これは「レプリカントとしての自分はもう死んだ。」ということではなかろうか。
この瞬間に彼は「絶対(人間)への欲望と(レプリカントとしての)限界への絶望を」を超越し、つづく「真に人間らしい」行動を通して「真の人間」になったのではないだろうか。(生物学的な「ヒト」ではなく、「人間とはなにか?」でいうところの「人間」)


ロイ・バッティが「神を演じようとした男」(神の模倣者)であるならば、

K、いやジョーは「神に勝利した男」(神からの試練に打ち勝った者)だろう。

 

アイデンティティ・クライシス

2049年のロサンゼルスには風俗、酒、人工食品、巨大な商業広告があふれ返っている。そして、そこに暮らす人々は、他の植民地化された惑星に移住することのできない貧困層である。

食に関しては2049年時点での環境レベルに鑑みればやむなしと言うべきなのかもしれない。しかし、それでも遺伝子組み換え食物によってつくられた食品が無機質に並ぶ自販機、サッパーの養殖していたあの線形動物(この時代の唯一のたんぱく源だという)を見て暗鬱な気分になったのは私だけではないだろう。廃棄食品(最近だとSNSに見栄えの良い写真をアップして、食べずに捨てるという蛮行が話題になった)や化学調味料、ファーストフードがもたらす負の側面(不勉強なので深くは言及しない)といった食の問題について目を背けつづけた先にあるのはこのような未来なのだろうか。

酒や性風俗といった即時充足的な快楽を満たすものに街は埋め尽くされている。劇中に登場した「酒」の字が浮かぶ電光掲示板と風俗店の曇りガラス越しに見えた性行為の描写は印象的であった。

巨大な商業広告とは、まさに「巨大」な広告のことを指しているのだが、私たちの身近にもそれは存在しているのかもしれない。スマホを手放さない現代人にとって画面上の巨大な商業広告はもはやお馴染みの存在だろう。それらを邪魔だと感じる一方でついついクリックしてしまう方も少なくないのではなかろうか。

このように2049年のロサンゼルスの住人は欲望に飼いならされているわけだ。そんな社会で彼、彼女は「アイデンティティ」を保てるのだろうか。そしてそれをついに失ってしまった時、まだ彼、彼女を「人間」と呼べるだろうか。

先進国に住む現代人である私たちは既に消費しきれないモノがぎゅうぎゅうに詰め込まれた箱のような社会に生きている。

この項目の冒頭で述べた「貧困層」とは誰を指しているのだろうか・・・・

 

◯「I want to ask you some questions.」

この言葉は作中で自身の出生の秘密を探っていく中でKがデッカードに対して発したセリフである。質問の答えをはぐらかそうとするデッカード。これに対していらだちを隠しきれず語気を強めて問いを繰り返すK。このやりとりの中で本作のキーマン「レイチェル」の名がはじめて登場する。

という印象深いシーンなわけだが、思えばこれは物語の根底にある「問い」のメタ的表現のように思える。本作も前作と同様に劇中で様々なキャラクターが問いを発している。フォークト・カンプフ検査(人間とレプリカントを見分ける為の手段の一つ)もまさに問いの繰り返しによって行われる。

 

この映画を観た者は「人間とはなにか?」という問いを心の中に存在するもう一人の自分に対して問いつづけているだろう。
答えを出せた方はいらっしゃるだろうか?

「人間とはなにか?」という問いに対して
私は「幸福と悲しみを同時に味わうことのできる存在」だとか
  「自分のことを大好きにもなれるが、大嫌いにもなってしまう存在」だとか

  「永遠に悩みつづけることのできる存在」だとか

  「自分の選んだ選択肢に確信を持てないままその行動に出る存在」だとか

  「自ら死を選び得る存在」だとか考えたりする。だが、答えはまだ出ない。

 

「人間とはなにか?」という問いは正義論(マイケル・サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう』が近年話題になった。)と同じく哲学的な問題であるが故に、私たちはある時点における最適解を得られたとしても、絶対的な解というものを手にすることは永遠にできないのだろう。しかし、私はそれで構わないと思っている。

つまり、死ぬまでに答えを見つけることが正しいのではなく、死ぬまで「答えを探しつづけること」が正しいのではなかろうか。一番大切なことは暫定的な最適解を見つけ出すための努力、すなわち不断に問いつづけていくこと、これを止めてしまわないことだと私は信じている。

 

 

かなり背伸びして書いた文章なだけに調子に乗りすぎてしまった感じが否めないが、遅筆で要領の悪い自分なりに頑張って書かせてもらいました。最後まで読んで下さりありがとうございます。

 

<最後に>

これを読んだ方が少しでも『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』に興味を持ってくれることを祈っています。そして、欲を言えば「人間とはなにか?」について考える時間を5分だけでもいいのであなたのその限られた人生の時間から捻出してくれたらいいなぁと思っています。さらにもっと欲を言えば、その思いを本記事にコメントしてほしいです。めっちゃ喜びます。まだ文章を書き慣れていないので内容に関しない文章表現に関する指摘、ご意見などもぜひお願いします。

それにしても最後の雪降る中のライアン・ゴズリング、ほんとにかっこよかったよね。あの横顔なんでしょうねいったい。なにはともあれヴィルヌーヴ監督をはじめとした本作に制作に携わった皆さん、ほんとにほんとにありがとう。

 

 

予告編見てるともっ回観に行きたくなりますね〜(笑)


映画『ブレードランナー 2049』予告2