『ブレードランナー2049』 前日談

話題の映画『ブレードランナー2049』(以下、『2049』と表記する)を公開初日に早速観てきました。おもしろかったよ^0^(この記事にネタバレはありません。)


初日にはりきって観に行くということは映画マニアでもない自分にしては大変珍しいことなのだが、少し前にツタヤで前作を借りて予習したばかりであったので記憶の新しいうちに行きたかったのだ。

実は、前作『ブレードランナー』を観るのはその時が初めてで、

観賞後は、これが『AKIRA』や『攻殻機動隊』を代表とするサイバーパンクの世界観の礎になり、日本のアニメーションの発展に革命をもたらした作品なんだなぁと感慨深い気持ちにさせられた。

 

しかし、あの映像美や音楽に魅せられることはなかった。

これはリアルタイムでご覧になった方は愕然とする感想かもしれないが自分と同じ世代(ゆとり世代)の中には共感してくれる方がいるように思う。なぜかというと、自分にはあの世界観が見慣れたものとなっていたからだ。上記2作品を始めとしたアニメ、マンガや、CGを多用に使用した映像を幼い頃から日常的に見て育った私にとっては『ブレードランナー』は「新しさ」ではなく「古さ」を感じさせる作品であった。

ー灯のともった巨大な高層ビル群とその下層に位置するスラム街ー
ー無秩序なネオン広告ともやに包まれた薄暗い雑踏ー

これらを始めとした現実と非現実の絶妙なブレンドが当時の人々に強大なインパクトを与えたことは想像に難くない。しかし、オリジナル版初公開からは30年以上も経っている。現代の一人の若者である私には本作品の中のあらゆるものが古く感じられた。(ただ一つを除いて……)
ここで一つ注意していただきたいのは私はこの作品を古臭いもの、と言いたいわけではないということだ。むしろその逆で、この作品から漂うのは「古き良き臭い」である。何が良いのか、というと上で述べた私の初見の感想で「あらゆるものが古い」と感じられた点だ。

どういうことかもう少し詳細に説明する。自分は映画に詳しくはないので制作過程について何かを述べることはできないが、その構成要素がいかに多いかはエンドロールの長さからも伺い知ることができる。脚本、演出、映像、音楽、美術、セット、小道具etc..

本作品も当然に様々な要素をもつわけだが、これらの要素の一つ一つに「古さ」を感じられた。そして「古さ」と「新しさ」は対応関係にある。つまり、私はこの作品以後の「新しい」作品に登場する諸要素との「関連性」を感じとれたのだ。これは一見当たり前のように思えるが私は奇跡ではないか、とさえ思う。あらゆる要素がオマージュされ後続作品に活かされ、また反面あらゆるクリエイターが『ブレードランナー』の呪いにかけられた結果として私にこのような現象が訪れたのだろう。無論、私の単なる思い込みで勝手に近年の作品に結び付けている要素がある可能性は否定できない。しかし、本作品がそういった思い込みを生じさせる「凄み」をもっていることは世代を問わない共通認識だろう。そして、この「古き良き臭い」を知覚できたのは「新しい」数多くの臭いを知っていたからだろう。逆もまた然りである。
つまり、本作品から派生した(「影響を与えた」という表現では不十分)数え切れない程の作品を「新しい」ものとして享受してきた私が「古い」本作品に出会えたことで温故知新のもたらす幸福を味わえたことは言うまでもない。

 

 

ここで、先ほど飛ばした本作の唯一の「新しい」点について少しだけ触れておく。読み手を戸惑わせるつもりはないが、この唯一の要素は「新しい」とはいうものの厳密には決して新しいものではない。なぜなら、それはこの映画が作られる何年も前からこの世の何処かで誰かが表現しているものであり、本作の発表以後も表現され続けているものであるからだ。では、何故「新しい」のか。それには二つの理由がある。一つは本作が上述の他のあらゆる要素を巧みに用いてこの「新しい」要素を際立たせることに成功したからだ。そしてもう一つがこの要素が未だに新鮮さを保っているからだ。

では、この要素とは一体何なのか?

 

その答えは次記事で『2049』と共に検討していこう。

 

ということで、書き始めた時点では当記事で『2049』についてあれこれつづっていこうと思っていたのですが、それらは次記事にお預けしたいと思います。(まだ自分で整理できていない部分があるため)なので、当記事では前置き程度に『ブレードランナー』(前作)についてちょこっと語らせてもらいました。

 

次記事はネタバレ含んだものになるので『2049』未鑑賞の方はぜひ劇場へ!

(前作『ブレードランナー』とyoutubeで視聴可能な3つの短編は事前に観ておいた方が絶対いいですよ!)


映画『ブレードランナー 2049』予告