南海本線難波行き
「ックハァ…ハァハッハァ………」
視界の右隅に居る誰かからチラリと視線を感じた。
(いちいち見んなやクソが…)
睨み返す前にとりあえず座りたい。
エナメルのリュックを座席に放り投げ、よちよちと2歩進み尻をクッションに叩きつけた。
(うーわ……もう空やん。)
リュックから取り出したペットボトルには、検尿用の容器さえ満たせないほどのお茶しかもう残っていなかった。
(……)
(あ、あいつ。)
視線の先には10代後半と思しき茶髪の女が手の中のものに夢中だった。
(…………)
首を返して左を覗くと、臭そうなジャケットに身をつつんだ丸いおっさんが死んだ目でキラキラしたものを見つめていた。
(……はぁ。)
最初は終電に乗っている自分を少し誇りに思うくらいの心持ちで仕事をしていた。別に出世がしたかったわけでもなんでもないのに。気づけば、死に急ぐように最寄りに向かって走る毎日を送っていた。
顔を上げてもう一度彼女に視線を向ける。
(なんか、ごめんな。)
リュックから読みかけの『武器としての「資本論」』を取り出そうとした。けど、やめた。
(どうせ集中できへんし今読んでも頭入れへんからええわ。)
言い訳はすぐに出てくるのに、右手のポケットからはあれがなかなか出てこない。
黒いスクリーンが汗で濡れていた。
太腿で拭うと、今一番見たくなかったものがそこに写っていた。指紋と汗の跡では覆い隠せない「汚れ」が着いていたのだ。
画面を下にしてスマホを膝の上に置くと、無い力を振り絞って両手を握りしめた。足りない水分を無駄にするつもりはなかったが、喉と後頭部の間が瞬時に渇いていく感覚があった。二つの拳を顔に持っていって震える音を立てながらゆっくりと息を吐いた。
手の甲に少しだけ着いていた水滴が汗なのかどうかは分からなかった。が、さっきまでかいていた汗と違うことは明らかだった。
本を取り出すのに邪魔なのでポケットに戻そうと手に取ったスマホに、もう汚れは付いていなかった。
本を開く前にまた誰かから鋭い視線を感じたが、それは闘う背中を力強く押してくれるようなものだった。